私の偏見(学問編)

今回の記事は私の偏見が多分に含まれていますので、あまり真に受けず、こういう事を考えている奴もいるんだなという程度で読んでいただければと思います。

その偏見というのは、私は個人的に、文系よりも理系の人間の方が物事を論理的に考えられる傾向にあるような気がします。逆に、文系の人間は概して情緒的なところ、悪く言えば非論理的なところがあると思うのです。かく言う私も経済学士の学位を持ち、数年後には法学修士をとることを目標にしている、つまり文系人間なわけです。

ただ、私は文系とは言っても、SPSSのようなソフトを使って理系とあまり変わらない分析もやっていたので(事実こういう分析の話で理系の知り合いと話が合ったという経験もあります)、理系の事もある程度は分かると思っています。ヨーロッパでは、例えばフランスに住んでいてもドイツの国境近くになれば、ドイツ語が話せる住民も多く、ドイツに似た雰囲気の街が多くなるものですが、それと同様に文系と言っても理系に近い勉強をやったことがあるわけです。

それで、私が理系は論理的と言ったのは、理系の分野で行う事は、単に事実の追及のみと言って良いからです。例えば、どんな原子でも陽子と電子の数は同じであります。この事実自体に対する考察や批評は通常しないわけです。陽子と電子の数が同じなのはおかしい、中性子と電子の数こそ一致すべきだなんていう研究者はいません(第一そんな事になっていれば、人類は存在していないでしょうし)。

もちろん、仮説を立てる際は自分の主観的な推測などが含まれる事もあるでしょうが、それでも基本的には事実の追及に変わりありません。対して、文系の場合はもちろん事実の追及も行われますが、理系以上に考察や批評をし、それは主観的もしくは情緒的になるケースが多いです。

例えば、夏目漱石の「こころ」を東大教授の小森陽一氏はこう解釈したとか、そういうのは事実とは違います。夏目漱石の「こころ」は先生が好きな女の人を友人(恋敵)のKから奪って、それでKは自殺し、先生も明治天皇の崩御を機に自殺するという内容で、それ以上でもそれ以下でもないわけです。理系だったらそれ以上の追及はするものではないですが、文系ならするわけです。

理系で行われる事は特定の事象が存在する、もしくは存在すると思われるという事を前提に研究を行うわけですが、文系はありもしない事まで研究の対象にすることがあるわけです。「こころ」という作品は存在しますが、そこから先をどう解釈するかは存在しないわけです。要するに、形而上の事まで研究対象になるわけです。そういうわけですから、研究者の主観的な解釈が多分に入りやすくなります。

法律や裁判の例を取っても、ある殺人犯が人を3人殺したとすると、その3人殺したというのは事実であっても、その人間を死刑にすべきかどうかの判断は「事実」ではなく、そもそも存在しません。ですから、裁判なるものが成り立つわけです。存在する法律をどうやって解釈するのか、そこには裁判官の主観が多分に含まれるわけです。ですから、裁判官によって死刑を出したり無期懲役を出したりと、判決が異なったりするのです。

そういう事から、文系の人間は情緒的に陥りやすく、たとえ非論理的な考えであっても理系に比べると寛容なところがあります。三島由紀夫は生前、自分は太宰治が嫌いだ、女と心中する作家でこうでなければならないといった事を書いていましたが、別に心中するのにふさわしい男性像もへったくれもありません。そのような考えや規則(?)が客観的な実在として存在するわけではなく、単に三島の主観的な観念に過ぎず、概して情緒的であるわけです。

さて、こう言うと何だか文系の方が怪しげな学問だと思われるかもしれませんが、そもそも現在私たちが受けている教育や学問は、西洋から来た近代科学に端を発しており、その近代科学の根底にあるのは哲学や神学、キリスト教であり、その起源をさらにさかのぼると古代ギリシアや古代ヘブライの思想にまで行き着くわけで、これらの思想の研究は、現在では文系に属します。そこから、様々な学問が分岐していって、今のように大きく分けで文系だの理系だのと分けられる、というより理系は文系から派生したのだと言えます。

しかし、この二つを分けるのは水とお湯の境目を決めるようなもので、そう単純にはいきません。さきほどのSPSSを使った分析のようなものもありますし、哲学を勉強しようとすると場合によっては物理学の知識が要求されることもあるわけです、哲学と自然科学は相反どころか密接に結びついているわけです(興味がれば「自然哲学」や「科学哲学」とかで検索してみてください)。ですから、文系と理系の線引きは無意味に思えるかもしれませんし、実際に私もそう考えたことがあります。

ただ、やはり文系と理系にはベルリンの壁のごとく大きな壁が出来てしまっているなと今は思います。私は物理学の本を読んでも、さほど難しくないはずの新書ですらよく分からない箇所が次々に出てきますし。宇宙に存在する4種類の力が重力、強い力、弱い力、電磁力であるのは一応知っていますが、これらのメカニズムはよく理解できていなかったりします。まあ、この手の学問に対する私の知識レベルが相当低いだけかもしれませんが。高校時代に物理と化学であやうく赤点をとりかけたこともあるので。

そういうわけで、私の「クレヨンしんちゃん研究所」でやっている考察も、バリバリの文系なわけです。劇しんが存在するのは事実、興行収入でいくら稼いだかというのも事実、しかし作品の特定のシーンはどういう意味を持つのかというのは、存在するものではなく、私の頭の中で生み出したものです。ですから、主観的になっていたり情緒的になっている箇所もけっこうあるかもしれません(あえてそういう書き方をしている部分もあります)。ですから、私が考察を書く際に一番注意するのは、決して独りよがりにならないこと、他人が読んでも納得がしてもらえる事を徹底することです。このシーンではこういう意味が含まれていると書いたら、そう主張する根拠も書いて、読み手に納得してもらえるように心がけているつもりですが、どうですかね。気がついたら独りよがりな内容になっていた、なんてこともなりかねないので。

ところで、ここ数日の間に、ノーベル物理学賞と化学賞で計4人の日本人の受賞が決定しましたが、日本のノーベル賞受賞者は圧倒的に理系分野で多いです。日本人初の湯川秀樹も2人目の朝永振一郎も物理学賞です。文系で言えば文学賞の川端康成と大江健三郎の2人しかおらず、経済学賞に至っては1人もいません。

佐藤栄作が受賞した平和賞ですが、これは文系とも理系とも呼べないと思います。ノーベル化学賞を受賞したライナス・ポーリングや、物理学賞を受賞したアインシュタインらによって創設された科学者によるパグウォッシュ会議も平和賞を受賞しているからです。むしろ、理系の学者の方が核兵器や武器弾薬の構造、人間や自然環境に与えるダメージの大きさなどを熟知しているはずですし、むしろ理系寄りと言える側面があるかも。もっとも、平和学なる学問が政治学や開発学などと密接に結びついている点を見れば、学問としては文系なのでしょうが。

日本人のノーベル賞受賞者の数は今回の受賞者も含めて15人ですが、そのうち理系分野(物理学6人、化学5人、生理学・医学1人)で12人、文系(文学2人、経済学0人)では2人で平和賞の1人を含めると3人です。つまり、理系では一つの部門での平均で4人受賞しているのに、文系では二つの部門での平均で1人、平和賞を含めてもこれまた1人なわけです。数だけでなく、率の面から言っても、文系部門での日本人受賞者は異様に少ない事が分かります。

ノーベル賞では文系部門での日本人受賞者が異様に少ないのは、上で私の書いた事と無関係ではないように思います。文学作品というのは、それをどう解釈するかは人それぞれであり、極めて主観的な評価に左右されやすいからです。例えば、石原慎太郎氏の小説を凡庸だとあまり評価しない人もいれば、なかなかだとそこそこの評価をする人もいれば、日本文学史の傑作とやたら高い評価をする人もいます。

経済学にしても、どの理論が正しいというのは主観に判断されやすいものです。ノーベル経済学者のミルトン・フリードマンの理論が正しいかどうかは人それぞれなわけです。アメリカのようなアングロサクソン型資本主義が正しいのか、ドイツや北欧などのライン型資本主義が正しいのか、それを決めうる客観的事実など存在しないわけです。一人当たりの所得が高くても、ジニ係数(貧富の差を測る指標)が高ければ(貧富の差が高ければ)、一概にはその経済状態の方が暮らしやすいとも言えないわけで、逆もまた真なりです。

他方、理系の方はただ事実を追及するだけで、例えば今回物理学賞の受賞が決定した、小林誠、益川敏英両氏の提唱したのは、クォークが3つという従来の「事実」は正しくなく、実はクォークが6つという新たな「事実」を提唱したことにあるらしいです。

そして、クォークは6つ存在する事実は明らかになり、この事実そのものに対してあれこれ解釈を加える余地などありません。確かに、この事実がどれだけ重要と思うかは人によって異なると思いますが、その重要度に対する「解釈」や「評価」は前述した小説での評価に比べると幅は非常に狭いもののはずです。少なくとも「こんなのは凡庸な発見にすぎない」と切り捨てる物理学者はそうはいないはずですし、そういう評価を下す余地そのものがほとんど無いと思います。つまり、理系は基本的にただ事実を追及するだけだから、人種や民族やエスニシティなどに関係なく、事実を突き止めれば突き止めるほど評価されやすい傾向にあるのです。

しかし、文系はそもそも多くの人々(特にノーベル賞の受賞を決定するスウェーデン(・科学)・アカデミー)の心をつかむのが重要だと言えるわけですが、その方法が実に曖昧なのですね。何を追及すれば良いのかが明確でないわけです。文学賞をとるにはうまい文章で面白い作品を書けば良いと言っても、何がうまい文章で何が面白いかは人によって評価は大きく異なってくるわけです。

日本はノーベル賞が送られるスウェーデン、ひいてはヨーロッパから大きく離れた国で文化も大きく異なります。そういう遠い国の人々の心をつかむのは、難しいと言えるわけです。村上春樹氏など日本の小説がヨーロッパでよく売れていると言っても、その人気度は本国や周辺諸国の作品の二の次ではないでしょうか。ヨーロッパで常にベストセラーというわけもないでしょう。

とまあ、文系と理系は互いに大きく異なった学問で、その違いが日本人が文系部門のノーベル賞をあまりとることができない一因になっているのではと思うわけですが、この原因の考察もまた文系の手法なのでしょうね。

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