ウェストファリア条約

今回は『クレヨンしんちゃん』とは全く関係の無い内容です。

私が以前から論じたかった事についてです。

世界史、というか欧州史にある程度の知識がある方は、ウェストファリア条約というのを聞いたことがあるでしょうか。

ウェストファリア条約とは、1648年にヨーロッパ最大の宗教戦争である三十年戦争を終結させるために締結された条約です。原文はこちらのページで読めますが、日本語訳はありません。

当時、現在のオーストリアとドイツ、その周辺諸国に当たる領土を支配下に置いていた神聖ローマ帝国内の各地域を治めていた諸侯らの支配地は、半ば独立国家としての地位を得て、神聖ローマ帝国は支配力を失ったため、この条約は「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と呼ばれました。ただし、神聖ローマ帝国自体は1806年にナポレオンに解体されるまで、名目上は存続しました。

さて、このウェストファリア条約は高校の世界史の教科書にも載っていて、極めて重要な条約とされています。その理由は、このページに書いてある事を以下に引用します。


最初の近代的な国際条約とされ、主権国家間の国際関係である主権国家体制が成立したという意義がある。


現在、我々が海外に渡航するには旅券(パスポート)が必要で、国によっては査証(ビザ)も必要ですし、国家は別の国家の政策については、基本的には干渉することはありません。そして、例えばアメリカとスイスでは人口も面積も全く異なりますが、だからと言ってスイスはアメリカより格下ということはありません。同じ主権国家ということで、国家間では建前上は全て平等です。

こういった事が現在の国際関係の常識となっていますが、この常識は歴史の浅いものです。それでは、いつからこのような体制になったのかと言うと、その始まりはウェストファリア条約とされています。

ウェストファリア条約が締結されたことで、主権国家間での国際関係が生まれたのが、多くの識者の間で理解されています。そのように論じている書籍はたくさんあり、私もこの常識を疑っていませんでした。

しかし数年前から、この常識を疑うようになりました。ある書籍と出会ったからです。

ウェストファリア条約 その実像と神話』(慶應義塾大学出版会)という本です。

本の中に書いてある、著者の明石欽司氏の履歴を以下に引用します。


慶應義塾大学法学部教授。法学博士 (ユトレヒト大学、1996年)。
1958年生まれ。慶應義塾大学法学部卒業、慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程修了、同博士課程中退。
海上保安大学校助手・専任講師、在ベルギー王国日本国大使館専門調査員、ブリュッセル自由大学国際法研究所研究員、新潟国際情報大学情報文化学部助教授、慶應義塾大学助教授を経て現職。
“Cornelius van Bynkershoek: His role in the History of International Law”(Kluwer Law Iternational, 1998)で、安達峯一郎賞 (1999年) を受賞。



2009年6月に出版された当時は慶應義塾大学法学部教授だったとのことですが、ネットで調べたところ、これを書いている2018年現在は九州大学法学研究院教授だそうです。

私がこの本を初めて知ったのは2013年です。用事があって埼玉県川口市を訪れた時のこと、川口市立中央図書館に寄った際に、偶然この本が目に入りました。

手に取って読んでみると、ウェストファリア条約が現在の主権国家間の国際関係の原点であるという、「ウェストファリア神話」は誤りであると論じているようで、驚きました。それまで常識だと思っていた「ウェストファリア神話」が事実でないのですから。

この本を買って読んでみたいと思うようになりましたが、600ページもの大著で定価は9000円、税込みで9720円もします。学術書にありがちなことでありますが、分厚いし値段も高いので、買うのをしばらく躊躇していました。そもそも経済学科出身の私は、国際法を専門的に学んだことがなく、買ったところでロクに読めず、本棚の肥やしになるだけではないかと思っていました。

しかし、2015年に意を決して購入しました。9720円は財布に優しい値段ではなく、内容も私の頭に優しいとは言えるものではありませんでした。それでも何ヶ月もの時間をかけて、少しずつ読んでいき、全てはありませんが内容をそこそこ把握できました。非専門家の私にはきつかったですが、良い頭の運動にもなりました。この本を読んだ結果、私は「ウェストファリア神話」は嘘だと思うようになりました。

今も「ウェストファリア神話」は常識と見られていますが、この手の常識を覆す本については、かなり警戒します。というのは、常識とは簡単に覆らないから常識なのであって、常識を覆す本は大抵素人によるトンデモであることが多いからです。

それでは、明石氏の本はどうなのか。このページにある、トンデモ本を見分けるポイントに当てはまるか調べてみました。

・著者が雑誌に発表した論文がない
→履歴にもある、“Cornelius van Bynkershoek: His role in the History of International Law”というかなりレベルの高い論文を書いているので、これは当てはまりません。

・著者がその分野について専門的に学んだ経験がない
→明石氏の履歴を見れば、国際法の専門家であることは明白ですので、これも当てはまりません。

・やたらセンセーショナルな文句が多い
→これも当てはまりません。「ウェストファリア神話」は嘘だという、従来の説を覆す本ですが、それを派手に宣伝するようなことはしていません。

・論調が攻撃的である
→これも当てはまりません。ただ、強いて言えば546ページ「そのような怠惰に安住し、或いは抗いながらもそこから脱出できない。それが人間という存在なのであろうか」という記述がありまして、これは攻撃的と言えなくもないかもしれませんが、従来の研究者を露骨に馬鹿にするような記述はありません。

・引用文献がない
→当てはまりません。学術書では普通の事ですが、引用文献が山のように出てきます。なお、この本の552~586ペジにかけて、ドイツ語をはじめ英語、フランス語、日本語などの、各言語の書籍や論文が記載してあり、先行研究を相当調べたのだと感心します。もっとも、プロの研究者なら珍しい事ではありませんが。


出版社は慶應義塾大学出版会で、ベストセラーを狙うようなところではありません。プロの研究者が書いた学術書で、決してトンデモ本ではないので、常識を覆すと言っても内容は信用できると言えます。

それでは、『ウェストファリア条約 その実像と神話』の内容をざっと紹介します。

ウェストファリア条約は、厳密に言うと神聖ローマ帝国がスウェーデンと結んだオスナブリュック講和条約と、フランスと結んだミュンスター講和条約という二つの条約の総称です。

この条約のついての考察は膨大な量なので、一部を取り上げてみます。まず、スイスとオランダの独立承認についてです。スイスとオランダがウェストファリア条約で正式に独立が承認されたことはよく知られていますが、そもそも両国はそれ以前から事実上独立状態にありました。しかし、実は法的に独立が承認されたのはウェストファリア条約ではありません。スイスは1647年の神聖ローマ皇帝の勅令で、オランダは1648年初頭のミュンスター条約でした。

また、両国の独立という概念は、実は近代の主権国家のあり方と少し異なります。スイスの場合、神聖ローマ帝国による裁判を決して受けず法的に自由であって、帝国との繋がりは維持されていたのに対し、オランダは独立について「最高であること」が認められていました。つまり、オランダの独立は近代の主権国家の概念に近い一方、スイスはそうではないということです。そして、「事実上」と「法的」という、近代国際法の論理で厳密に区別されるという考えが当時は未確立で、近代国家や近代国際法も成立していませんでした。

また、帝国等族という、神聖ローマ帝国内の諸侯の地位について触れます。帝国等族は神聖ローマ皇帝から自立をしたと解釈できる一方、皇帝の封臣の地位にも留まっているとみなすことも可能です。さらに、帝国等族の諸権利は神聖ローマ帝国内の枠組みの中でのものであり、近代国際法における主権が承認されたと解釈するには無理があります。

宗教に関しても、ウェストファリア条約ではカトリックとルター派と並んでカルヴァン派も認められ、信教の自由が認められたように思えますが、ツヴィングリ派などは承認されなかったため、とても今のような信教の自由と同列には並べられないのが実態だったようです。ただし、三十年戦争が最後の宗教戦争と言うように、この条約以降、宗教的対立で戦争は起こらなくなるくらい、宗教の社会的価値が低下してはいますが。

結局のところ、ウェストファリア条約は欧州全土の関係を一新するようなものではなく、「欧州の基本法」とみなすのも不可能です。この条約は当事国間の関係を整理して条文化したものであり、現状追認とも言えるものでした。何か新しい制度を創ったわけではありません。

それでは、なぜ「ウェストファリア神話」が生まれたのか。本の第4章で詳しく述べていますが、ごく簡単に言うと、18世紀から19世紀にかけて、後世の研究者らがウェストファリア条約の重要性を強調するようになり、特にアメリカの外交官のヘンリー・ホィートンがこの条約を「欧州公法の基礎」を形成したと主張したことで、このウェストファリア神話が出来上がっていったそうです。

前にも一部引用しましたが、本の最後(546ページ)で著者の明石氏は以下のように書いています。


ウェストファリア神話は誤謬である。そして、その「神話」は人間の知的怠惰を示す数多くの事例の一つでしかない。そのような怠惰に安住し、或いは抗いながらもそこから脱出できない。それが人間という存在なのであろうか。


この本が出たのは2009年6月、あと半年で10年になります。私が持っているのは、2011年5月初版第2刷のものです。そこそこ売れているようで、研究者や学生を中心に読んだ人は結構いると思います。

しかし、私は明石氏以外に「ウェストファリア神話」が誤りであることを指摘する人を見たことがありません。ウェストファリア条約についての専門書はこれしか読んでいないので、もしかしたら他の本でも「ウェストファリア神話」が誤謬だと指摘する書籍があるかもしれませんが。

一方、「ウェストファリア神話」を支持する人の中で、ウェストファリア条約の原文を読んで吟味した上で、誤謬ではないと主張している人は見たことがありません。単に「常識」だからということで、ウェストファリア条約を近代の主権国家間の国際関係の原点だと思い込んでいる人ばかりなのでしょう。

明石氏の主張がどの程度学界で受け入れられているかは知りませんが、ウェストファリア条約については明石氏の研究が最も納得できるものですので、この本を読んで以降、私は明石氏の説を支持してきましたし、これからも説得力のある反論が出てくるのを確認できるまで支持するつもりでいます。

だからと言って、私は別に「ウェストファリア神話」を信じている人に、それは嘘だと声高に主張するつもりはありません。ただ、国際法の専門家による、「ウェストファリア神話」が誤謬であるという主張が実際に存在するわけで、これについてどう思いますかと、「ウェストファリア神話」の支持者にご意見を聞いてみたいと思ってはいます。



ウェストファリア条約―その実像と神話
慶應義塾大学出版会
明石 欽司

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