「嵐を呼ぶ 歌うケツだけ爆弾!」、補足

注意:映画「嵐を呼ぶ 歌うケツだけ爆弾!」に関する内容に触れていますので、未見の方はご注意ください。

本日、「嵐を呼ぶ 歌うケツだけ爆弾!」のDVD発売を記念して、トップページに映画編の考察を載せました。7月に書いたやつです。

ここで、この考察文についての補足説明を少ししたいと思います。
「ケツだけ爆弾」で、橋の下に逃げるものの、結局捕まってしまうシーンで、私は以下ように書きました。

自らが死に、自らが野原一家と別れる。それはまだ耐えられるであろう。自分は、もはやこの世からいなくなるのだから。しかし、この世に残された、自分とはあまりにも深い絆で結ばれた他者を悲しませるのは、何よりも耐え難い事ではないか。

他者であるからこそ、その悲しみを自分が身代わりになって受ける事は絶対に不可能なのである。そしてそれこそが、シロが自ら捕まる際に、最も悲しんだ事ではないだろうか。



これを書く2ヶ月ほど前、私は大学の方で医療倫理の問題に若干関わりを持っていまして、上記の文章は臓器移植問題にも通じる話なのですね。
自分の臓器を他人に提供する事を希望する場合、ドナーカードというものを持つこととなります。そして、自分が亡くなった(脳死した場合も)時、自分の体は中が解体されます。どんな風にかって?
まず、胸の皮膚をはがして、肋骨を出します。胸のところにある骨ですね。この肋骨は非常に硬いので、電気ノコギリで中央部を切り裂き、はがし取るわけです。こうして、臓器がむき出しになるわけで、そこから臓器を取り出して、他人へと送られるわけですね。他にも、目の移植というのもあって、こちらは眼球をくりぬかれるわけです。

ここで考えて欲しいのですが、体の中や顔(眼)が解体されて、臓器を取られ、それが見ず知らずの他人の元へ行く。これが自分の体ならまだ良いでしょう。その時、自分は既に亡くなっているのですから。しかし、自分の身内でしたらどう思いますか?
もちろん、本人がそれを望んでいて、それによって助かる人がいるのですから、決して悪とは言い切れず、非常に立派な事だとも言えるわけですが、それが自分にとってかけがえのない人でしたら、取り残された自分たちはその人が上記のような目に遭うことに耐えられるか疑問に思うのです。街を歩いていて、その人の内臓や眼がその街中の見知らぬ他人によって使われているというのを考えた場合もそうです。

自己犠牲の精神を否定するつもりはありませんが、医療倫理などの問題は、他人に対する配慮というのが欠けているような気もするのです。

上記の「ケツだけ爆弾」のシーンでは、相当泣けるシーンというわけで、私はかなり気合を入れて書こうとしましたが、どういう風に論じたらよいか、良い考えがなかなか思い浮かびませんでした。そして2ヶ月ほど前に、他人に対する思いを視野に入れたこの倫理問題をふと思い出し、「ケツだけ爆弾」に取り入れて論じた結果、何とかなったという次第です。

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